鍋田干拓地の野鳥観察(1960-80年頃)

 野鳥観察をする人々の数は、1960年ごろから次第に増えてきた。しかし、野外識別用の図鑑は少なく、日本全体で見ると野鳥の繁殖や渡りに関する知見も不十分であった。こうした時代背景の中、野鳥の会の会員が日本各地で丁寧な観察を続けることで、いままで記録の無かった野鳥の繁殖や渡りの様子が次々に明らかになっていった。特に、鍋田干拓地での新発見が脚光を浴びることになった。
 ここは、戦後の食糧増産の一環として1946年に着工された。しかし1959年の伊勢湾台風で壊滅的な打撃を受けた。その後農業用地として復旧したが、一部放置されていた農地が葦原にかわり、多くの水鳥の休息地や繁殖地となった。1961年9月10日のこと、吉村信紀氏は釣りをする友人から「鳥がたくさんいる」という情報を得た。ラビットのスクーターに中島正氏を乗せ、カメラを持って初めてここを訪れた。水田の稲のなかにセッカの巣をみつけた。稲穂が頭をたれて雛が水につきそうになっていた。こうした情景に感激した吉村氏は、毎週ここを訪れて鳥の観察を続けた。11月20日にはこの干拓地にセイタカシギが飛来した。小笠原昭夫氏が発見し吉村信紀氏が写真撮影して『野鳥』誌に報告した。これを機に水鳥の楽園としての鍋田干拓の名が全国に広まった。クロトキ、ツバメチドリ、ヘラサギなどの珍しい鳥も飛来した。1964年には干拓西南端から知多半島まで高潮防波堤が完成し、その内側に広大な干潟ができた。ここにも多数の水鳥が棲みつくようになった。
 その後の埋め立てで葦原はほとんど姿を消したが、1971年の『野鳥』誌「干潟のシギ、チドリ特集号」に「鍋田干拓地の鳥」が掲載された。これを契機に、県環境部は野鳥公園の建設に着手した。シギ・チドリなど渡り鳥の生息地保護とともに青少年の自然教育の場、県民の憩いの場とするものであった。そして、1975年弥富野鳥園が完成した。
吉村氏によると1961年9月10日以降1971年までの10年間(合計245回に及ぶ観察の結果)で163種が記録された。ちなみに1971年に新たに報告された鳥はソリハシセイタカシギ、ハマヒバリ、ミヤコドリ、ツクシガモ、ツメナガホオジロであった。
なかでも、ソリハシセイタカシギは、左のイラストのように背中の模様が8の字に見え、誰もがこの珍鳥を捜し我こそはと密かに思っていた。初認者は松原敬親氏であった。これについて『フィールドガイド日本の野鳥』の著者である高野伸二氏のコメントがある。「日本で初めてソリハシセイタカシギを見つけるのは自分だと自負していたが、松原氏が発見したことは悔しいけれど嬉しい事であった」。高野氏も含め、全国から多くの愛鳥家たちがこの鳥を見ようと鍋田を訪れた。名古屋支部報第12号には、当時の珍鳥を発見する感動やそれを仲間と共有する楽しさが記載されている。
 1973年7月ツバメチドリの幼鳥10羽を小澤尊典氏が初めて確認した。その後、1977年再び幼鳥3羽と親鳥が見つかった。翌78年には、ついに巣と2卵が、松原敬親氏によって発見されたのである。数日後には孵化が確認された。巣は、地上に僅かな窪みをつけ小石を少し集めただけの粗末なものである。卵の大きさは、コアジサシのものと同じ位で、クリーム色の地に暗褐色の斑点が全面に散らばっていた。
 1975年シマアジが野鳥園内で繁殖していることが確認された。卵は真っ白なもので当初はわからなかったという。北海道でも繁殖が確認されており、日本で二例目の報告であった。
 1975年7月セイタカシギの親子が鍋田干拓地近くで発見された(松原氏)。日本で初めて観察された繁殖例である。1976年にはセイタカシギの卵が確認(吉村氏)され、毎日新聞に掲載された。この雛と卵がうつっている写真は毎日グラフで二等賞を得た。
 1979年弥富野鳥園々長と職員が園内にチュウヒの飛来が頻繁なことを観察。1982年若杉稔氏がチュウヒの巣を発見して、繁殖していることを確認した。鍋田干拓地西側の木曽岬干拓地では現在もチュウヒが生息しており、これの保護活動は継続されている。


付記
 この記事に登場する方々は、珍しい鳥ばかりを探す、いわゆるマニアではなく、調査保護や教育啓蒙活動にも大きな貢献をされた方々である。勿論、珍鳥をみることは野鳥観察の大きな喜びのひとつである。しかし、それだけではない。いつも身近にいる野鳥を通じて、季節を感じ、自然について学んでいくことの大切さも忘れてはならない。
 鍋田干拓の野鳥を観察しつづけている吉村氏は、2011年9月には1000回目の観察になるという。50年間の記録は貴重なもので是非実現していただきたい。


文責 間渕陽子
参考資料
『野鳥園だより』昭和58年11月第20号 (愛知県弥富野鳥園事務所 発行)
『野鳥』昭和46年8月号 昭和51年5月号 (日本野鳥の会 発行)
『名古屋支部報』昭和46年12 昭和49年16 昭和51年22 昭和54年29

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